葉山レイコの処女宮を見ながらhmpの作風について考えてみた
下手な考え休むに似たりと言われそうですが。というわけで、葉山レイコです。いやいや、メチャクチャ古いです。今さらこの作品で抜く人はいないでしょう。モザイクでかいし、髪型古いし、メイクも古い。昔見たときはこの映像美に魅了されたものですが、さすがに時代を感じます。処女宮の最新作はさきっぽですが、初代はさきっぽのお母さんで通用する年齢の葉山レイコです。改めて見てみると素晴らしいボディです。今だと西宮ゆめのボディが彼女のボディに近いかな。想像してもらいたいんですが、西宮ゆめが濃いメイクをして頭を鶏冠ににして80年代風お嬢様ルックスにすると葉山レイコにぐっと近くなります。その撮影が秋葉原じゃなくて白い家の中で、お姉さまにおっぱいマッサージされてるところから始まるわけですよ。そして草原でお姉さまと遊んだり、お姉さまとお風呂で洗いっこしたりして、最後男とセックスして終わりです(当然疑似本番)。
アイポケではあり得ない作品ですが、なぜあり得ないか考えてみるとhmpが浮かび上がってきます。ある種の言いがかりになっていたらすみません。葉山レイコは元祖処女宮で、1本限りで引退です。彼女の後には星野ひかるや夕樹舞子、記憶に新しいところでは星野ナミ、神谷まゆと続きます。長い歴史のある作品で、初回こそ時代がかった作風でしたが、恐らく相当作風は変わっているに違いありません。
元祖処女宮の葉山レイコを見ていると、女ばかりの環境で女の中でだけ通用する価値観を育ててきた女の子を演じていて、そういう女の子を蔵出しするというのが処女宮のコンセプトだったのだなと。処女宮ってのは処女って意味ではなく乙女座という意味です。別にこの部分を深く掘り下げても何も出てきませんが、象徴的に言うと乙女座ってのは女の知恵、女の価値観の星座で、そこを作り手がどう意識して作ったかは今となっては不明ですが、ジェンダーフリーくそ食らえ、ジェンダーフリーになったときエロスは死ぬんだという思いが過剰に感じられます。その過剰さがたまりません。
女の価値観だけが通用する女の園という意味では、実は修道院も女子校もソープランドの待機室も同じでしょう。旧き良き芳友舎の女衒たちはそういう場所から女たちを引っ張ってきて、ほら、女の子ってのはお前らとは違う、だからめんどいんだよ、この面倒臭さを引き受けられるか?覚悟してるか?という重さを突きつけていました。残念ながら僕は新しい処女宮は見てないのですが、hmpの他の作品は少なからず見ています。はるか真菜、星野ナミ、堀江クララ、MIYABI、藤本奈央辺り。hmpが西田カリナ、星野遥で最後の光を放った頃の少し前の作品にも、彼女たちの血管が浮き出るようによく磨かれた白い肌から僕は経血の匂いを嗅いだ記憶があります。hmpが時代から壊滅的な打撃を受けて淘汰されたのは、僕らの嗜好が変わったのもあるけれど、hmp的な女の子をイデオロギー的に支えるジェンダーの権力、つまり女衒の眼差しの権力というものが少しずつ壊れてしまったことも大きかったんではないか。
多分hmp内部で一番hmpに打撃を与えたのは星野遥だったんじゃないかと。彼女はhmpらしい美しい肌あいを持った女優でしたが、デビュー作から男優を食えるぐらいのエロスキルを持った美人さんで、彼女がヒットを飛ばし、ザック荒井監督のもとでhmpのメーカー記録を出すに至り、hmpというメーカーのコンセプトが大いに揺らいだのではないかと僕は推測しています。
この物言いは、恐らく言いがかりに近い。大体僕なんぞは星野遥以降のhmp作品は見てないのだから僕の意見など無視されて然るべきだとさえ思います。ただ、僕は昔のhmp作品好きでした。堀江クララや藤本奈央の白い肌と女の匂いに当てられました。星野遥はとても好きでしたけど、多分あれはhmpではなかったのです。お前らこれが女だぞ、味わえ!チンコがもげても突き続けろ!どうだ、こんな女を味わってこそ男として生まれた意味があるんだよ!それがhmpの表現するエロスだった気がします。作り手の業、それは女衒の業でした。そんな時代は終わってしまったと理解しながらも、どうしてもノスタルジックになってしまう。自分も歳を取ったなと思います。